映画における黒人とろう者

渋谷の夜、ラブホテル街のなかで、映画「コフィー」を観る。ヘロイン中毒で廃人となった妹の仇討ちに執念を燃やす、とびっきりカッコいいコフィーを演じるバム・グリアが初主演した70年代黒人観客対象・黒人俳優主演・低予算製作の<ブラックスプロイテーション映画>の一本。
黒人による黒人の為の映画のように見えるが、監督は白人のジャック・ヒル。しかし、この映画に出ている黒人たちは自分たちのスタイルでいきいきと演じているように見えるし、当時のファッションであるファンキー・ポップス・もみあげ・アフロなどを最高に決めている。それだけでなく、白人による権力の下で虐げられている厳しい現実生活のなかの黒人像も描かれていて、そういったなかで映画のなかの黒人たちは監督の演出に全面的に応えているように見える。その信頼的関係はジャック・ヒルのおおらかさや聡明さと黒人たちのしたたかな行動力が見事に融合されている。黒人たちは自由の象徴を表現しながら現実社会における不自由さ、厳しさをも物語っている。この映画では、おそらく70年代ファンクミュージックやBGMの音楽が最大限に発揮されていて、白人・黒人といった人種や異なる時代を超越した共通感情(コード)を音声的に形成しているのではないかと思う。冒頭のいきなりのぶっ飛びシーンから始まり、ポルノ描写、白人対黒人の大乱闘、血まみれ模様、政治的談話といったあらゆる要素がB級映画さながらに交錯していて、大衆娯楽的に仕上げられているが、全てがカッコいいとしか言いようがない。
「コフィー」は白人の監督による黒人映画(ブラックムービー)ではあるが、聴者の監督によるろう者映画(デフムービー)はそれらに対して、はるかにずっとダサい。黒人とろう者は互いに独自の文化をもったマイノリティであり、マジョリティによる被抑圧者の立場という悲劇の歴史を背負った大きな共通点はあるが、決定的に違うのは、黒人はあくまでも人種的あるいは民族的な差異を突きつけられているだけなのに対して、ろう者は、障害者という病理的な差異のレッテルを貼られていることである。だから、聴者によるろう者の映画はほとんど、どんな内容になるにせよ、慈善的な要素が付きまとって離れられないのだ。映画のなかのろう者は、悲劇的人物であり、涙ちょうだい、あるいはワレモノ扱いのなかで、けなげに頑張る人物像がほとんどである。(そういう意味では、「バベル」の菊池凛子演じるろう者像は聴者によるろう者役と言えども、価値ある存在だと思う。)もうひとつは、やはり音声的な共通コードによる関係からくる。白人と黒人は文化的に異なる事象はあるものの、コミュニケーション環境や使用言語はだいたい同じであり、音声的同一文化を共有している。そのなかで、音楽や台詞などの音声的表現を共同的に創造することができる。それに対して聴者とろう者は音声言語と視覚言語という決定的な違いがあり、コミュニケーション方法も非常に異なる。だから、言語的には同一文化をなかなか共有できない。聴者の視線とろう者の視線の違いは、映像画面をみればあきらかにわかる。例えば、画面内での手話の入れ方や人物体の切り方などに見られる。
被抑圧者の立場からブラックムービーと同じ構造をもつデフムービーから「コフィー」のようなカッコいい映画が将来出現することは、あリ得るのだろうか?ブラックムービーのなかでも、黒人自身の監督による商業映画の数の比率は年ごとに高くなっている。商業映画はほとんど皆無に等しいが、ろう者自身によるデフムービーも増加の一途をたどっている。聴者によるデフムービーではなく、黒人監督スパイク・リーが、自分たちの文化、歴史、社会を凝視しながら撮ってきた映画のように、ろう者自身による本当の意味でろう社会やろう者の身体性から滲み出るようなデフムービーの出現を待ち望む。