「エスケープ・フロム L.A.」

ついに、ジョン・カーペンター監督の「エスケープ・フロム L.A.」をスクリーンで観ることができた。この日が来るまで本当に長かった、としみじみと感慨に浸る。巷であちこち言われているように、カーペンターの生き方、アメリカあるいは全世界に対する彼の態度がこの映画に現れているのだということを、全身の震えを相伴って感じることが出来た。

アメリカ、全世界に対して、カーペンターは世界中に流れる電気エネルギーを消滅するという全世界の否定、全世界に対する無責任さをラストで実行する。それは至極のニヒリズムの表れと解読するしかないかもしれないが、この映画に描かれるアメリカという国家と敵対するテロリストの間で右往左往に転がる権力関係をぶち壊すということの表明でもある。もちろん世界は滅びてしまうわけだが、それだけ世界は権力のみによって回っている宇宙のなかの一惑星なのだと観念するしかないともいえるのだろう。主人公スネークは、与えられた任務を淡々とこなす。我々も眼前に繰り広がる現在の情況に対してやれることを淡々とやるしかないのだろう。但し、主人公スネークが親切にガイドをしてくれた孤独な女性や大統領の娘らの言動にほんのわずかだが心を動かされながら、権力社会の逆ベクトルに向かっていったようにしなければならない。それは、普通に生きる人々にとって並大抵のことではないし、そのような生き方は不可能に等しいのだが、カーペンターは我々にその生き方しかないのだと教えてくれる。と、ここまで大仰に書いてしまったが、B級映画のもつ楽天さと無責任さにこだわりながら、我々を大いに単純に、知的に楽しませてくれることが、カーペンターの凄さだと思う。カート・ラッセルピーター・フォンダの中途半端なCG画面処理とも思える津波サーフィンには、思い切り笑えた。