ある企画展示のなかの牛腸 茂雄

東京国立近代美術館に牛腸 茂雄の写真が展示されているというので、早速見に行ってみた。「わたしいまめまいしたわ」という逆さ言葉のタイトルが示す企画展のコーナーのひとつに展示されていた。〈わたし〉の根拠を問い、〈わたし〉と〈他者〉の関係を探るといった展示テーマでいくつかの作品が展示されているのだが、個々の作品そのものだけを吟味してみると、〈わたし〉というありふれたテーゼをはみ出した個人がもつ狂気的な佇まいをそれぞれに感じる。ただ、澤田知子とキム・スージャの作品だけは、まさにこの展示テーマの為だけに忠実につくられているかのようだ。そこには作品が持つ個体性が微塵も感じられない。芸術作品というのは、直接性の有無にもかかわらず、作家自身のもつ狂気さが付きまとうものだと思う。

お目当ての牛腸 茂雄の作品だが、何回見ても、一気にではなくじわじわと背筋が凍ってくる。シャッターに収められた被写体人物のこちらを見つめる眼差しを凝視してみると、目を退けたくなる瞬間が浮かびあがる。その眼差しは、作家の視線を通して観客にも跳ね返るという普遍的な共有空間が現れると思うのだが、僕はその普遍的な関係よりも、普通の人間の身体ではなく、脊椎カリエスを患った障害者である作家の身体に向けられた現実的な眼差しの要素が大きく作用している事実も踏まえて作品を見なければならないと思う。それが牛腸 茂雄の作品のもつ宿命さであり、人間が潜在的にもつ狂気さを暴く優れた作品なのである。しかし、それとは違う面からくる作家自身の被写体に向ける優しさもこちら側に静かに伝わってくる。〈わたし〉と〈他者〉の関係性は残酷さの一言に尽きる。それに耐えて耐えて作品を撮りつづけた作家自身の行為と作家自身の身体性から発する〈わたし〉の痕跡をセクションされた意図のなかにも取り入れてほしかったと思う。作品には主観性や客観性の尺度を超えた作家自身の強烈な個人性がまず現れるのであり、それを無視することはできないはずなのである。