「女教師 私生活」

この映画は僕の生れた次の年に撮影されている。僕が生れた70年代の邦画を観るという体験は、一種の不思議な感覚が生じ、何ともいえないような気分が高じる。幼少時代の記憶なんてひとかけらも無いはずなのだが、デジャヴともいえるような妙に生々しい懐かしさがある。虚構でしかない映像を通じてでしかないが、僕が生れた時の当時における日本社会の雰囲気を曲がりなりにも僕個人的なりにイメージを膨らませていき、センチメンタルな方向に道連れされてしまう。

さすがに日活ロマンポルノに田中登監督であり、鑑賞前の期待感を上回ってしかるべき作品であり、相変わらず何でもありという感じで、自由奔放なつくりであった。天井に浮かぶ数々の風船、風間杜夫(若い!)がたびたび持つ模型飛行機、公園での異常に多い花弁、柱に結ばれた白いシーツなどの意味不明なオブジェの使用が、オルガスムスだけを求める欲望のみによってでしか生じないはずである男と女のセックスをより一層引き立ててくれる。現代の性交は生殖や愛情行為という目的よりも快楽だけを求める不毛で意味不明な無目的のほうがリアルにならざるをえないのだ。ところで、この映画はボカシ部分の面積度がハンパじゃない。映倫審査が厳しかった時期に撮られたのだろう。パンツを脱いだら画面半分あるいは半分以上ボカシが即座に現れる。全然セックスが見えないのだ。ポルノ映画として成立しないといってもいいくらいだ。だが、田中登監督は開き直ったのかどうか知らないが、画面の大部分を覆うボカシを逆手にとって、我々に倫理問題の持つ緊張感を孕ませた衝撃的なシーンを見せる。公園で先生と生徒がセックスしている最中に一緒に連れて行った孤児院の少女が戻るシーンだ。大人のセックスを少女が見つめる画面はショッキングであるのだが、画面半分の赤いボカシがかぶさっている。当然ながら子供の目の前で濡れ場を演じてはならないので、撮影時赤いボカシの向こうは無人であるはずなのだ。だが、赤いボカシの表層には見えないはずの性交風景が見えてしまう。脳や意識のなかに沈殿しているモラルを揺さぶるとてつもない強度をもった画面だ。パゾリーニの「ソドムの市」に匹敵するくらい凄い映像体験だ。もちろん単にグロテスクな画面になっているのではない。人間の倫理的なあり方について、視覚的にではなく、想像的に我々の思考を刺激するのだ。