衣笠のサイレント二本立て

サイレント映画を観るのは久しぶりだ。前にこのブログで僕はサイレント映画から多大な影響を受けていると書いた事があるのだが、たまにサイレント映画を観なければ僕の視覚的表現における感覚あるいは思考が鈍ってしまうような気がする。ろう者である僕は、視覚的なことがベースであり、音声なしで芸術表現を極めるサイレント映画とは切っても切れない存在なのである。

NFC衣笠貞之助サイレント映画を二本観る。一本目は「月形半平太」。本プリントは9.5ミリパテベビーの短縮版であるのだが、NFCの大きいスクリーンに拡大映写される有様は感動すら覚える。チャンバラシーンの1人対多人数の構図にはいつもながら笑えるが、アクションの純粋性が際立って観る者を楽しませてくれる。チャンバラのアクションはサイレントのリズムにもっとも合うのではないか?追い詰められる月形を演じる沢田正二郎の顔はすごくいい。

二本目は「狂った一頁」。精神科病院を舞台に狂気の世界を描いた実験的前衛映画となっているのだが、僕はあまりのめり込めなかった。人間の底辺にまで落ちぶれた狂人が何故、光と影を強調した構成的美学的な画面に収められねばならないのかという疑問があり、狂人の混沌とした内面を表すかのように激しいモンタージュ多重露光、画面のゆがみなどといった実験的手法を盛んに駆使する、その狙いが偽善的にすら感じてしまう。狂人を演じる人物をただ凝視すれば充分であると僕は思うのだが。つまりは、この映画は総じて凝りすぎているのだ。衣笠の視線は狂人の内部までには届いていない。狂人として収容されている妻と小使いとして病院内にとどまっている夫を軸に、娘?や青年、医者、看護婦のあいだで会話する場面がよく出てくるのだが、字幕は一切ない。そもそも無字幕イメージとして撮られたらしいのだが、やはり字幕は入れるべきだったと思う。これはろう者である僕がストーリーの内容が判らないから字幕が必要だという陳腐な意味ではなく、ストーリー要素があるならば、サイレント映画のリズムとして黒画面の字幕の挿入が必要なのだ。大袈裟な俳優の演技と黒画面の字幕の相互的入れ替わりがサイレント特有の視覚的リズムを形成するはずである。無字幕のサイレント映画といえば、ジガ・ヴェルトフの「カメラを持った男」が最高峰であり、「狂った一頁」は残念ながらそれには全然およばない。衣笠はトーキー以後、ヒット作を連発する監督となり、「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリを受賞するように、サイレントではなくあくまでもトーキーの映画監督であったのである。