三文役者、殿山泰司

京橋で「黒の報告書」('63)を見る。これまでに、増村保造の映画を20本近く見てきたが(もちろん日本語字幕無し)、初めて増村の映画を面白くないと思った。というのも、あらゆるジャンルの映画を撮る天才的職人監督である増村でも法廷ドラマとなれば、必然的に面白くなくなってしまうのだろうか?裁判のシーンほど、映画にふさわしくないものはないと僕は断言したい。なんといっても動きがない。被告人、検事、弁護士、裁判官、傍聴人らの一点の画面空間に束縛されたマネキン人形をカットバックに相互撮影されるだけのたいくつな映像画面。もちろんその画面の連なりには、言葉によるスリリングな展開が繰り広げられるのだが、そんなものは、小説とか、テレビドラマやラジオドラマ(古いか?)に譲ればよろしい。映画とはなによりも運動体であるのだが、増村の醍醐味は移動撮影やズームアップのような自由自在なカメラの動きよりも、編集による画面と画面のスピーディな連続体であると思う。だが、この法廷ドラマでは、増村ならではの編集技法でさえ、影をひそめ、活気を失いがちになってしまうようだ。正義の検事と悪徳な弁護士の言葉の魔術師同士による法廷での決闘は今昔かかわらず映画のモチーフとして長く愛用されているが、決して映画的ではない。映画とは動く、動かない、どっちにしろアクションであるほかないのだと思う。言葉だけは次々と溢れ出すが、全体的に停滞気味ななか、殿山泰司だけが地味ながらも映画内で強い光線を発散している(頭じゃなく存在自体です、笑)。一直線に話す情熱的な宇津井健を物柔らかに受け止めながら、のらりくらりと自分の任務を粘り強く淡々とこなすその姿はいぶし銀の価値以上だ。容疑者を追尾するなか、床屋で容疑者の地面に落ちているカットされた髪を、何気なくしゃがみ込みながらわざと落としたハンカチとともにさらりと取り上げる、そのなんでもない殿山泰司のアクションの一連に、僕はまじで惚れるのであった。