「山に生きる人びと」

宮本常一の「山に生きる人びと」を読む。すごく面白かった。ずっと前にドライブにはまっていた時期があって、秩父から雁坂トンネルを通って山梨に向うルートや小鹿野から群馬に向うルート、また奥多摩から山梨に向うルートなどをよくドライブした。道路を走っているあいだ、視界の向こうに傾斜にへばりつく民家が点々と見えたり、唐突に集落の中に入ったりする。その時はこんな辺鄙なところによく住めるなと思う程度でしかなく、奥地の集落は寂れた感じもあって不気味な印象が勝っていた。それでも、大自然のなかで突然生活の匂いがする光景を目の当たりにすると生活をする同じ人間として、心のなかでぞくぞくした感覚は今でも覚えている。山間に住む人びとはもともとは落人のように平地民で平野から上がってきたという漠然としたイメージを持っていたのだが、宮本のフィールドワークから導きだされた推定によると山間に住む人びとは山から山へ伝って移動してきたのだという。平野からではなく山の彼方からやってくる。これには正直目から鱗が落ちた。山岳民の起源を遡っていくと縄文時代の狩猟民にあたるのではないかというようなことを宮本は言っている。縄文期と弥生期には明確な区切りはなく、重なっている。大陸から水田稲作が伝えられ、列島(主に西日本)に広まっていったときから日本の歴史が(本格的に)始まったと言われているが、それ以前に焼畑耕作が大陸から伝わってきて、狩猟民は狩りや採取とともに焼畑を生活の中心に行っていたのである。焼畑から定畑へと変わっていくのだが、山岳民は狩りと農耕という縄文文化につながりをもつ。山にはマタギ、杣人、木地屋焼畑農業者、鉱山師、炭焼き、サンカ、落人の末裔など、さまざまな漂泊者が生活していた。それらの人びとに共通していることは、水田稲作とは無縁な生活を長く続けていたことだ。平野から上がってきた人でも、わずかな平地をみつけて水田稲作を持ち込むことはしなかった(水田の平野と畑地の山間の境界には棚田がつくられる)。天皇と結びつく水田稲作が日本史の表なら、山に住む人びとの生活は日本史の裏である。宮本は日本史の裏というよりも、もうひとつの奥深い文化をもった日本をひたすら歩き回り、現地人と積極に接触することによって多種多様な山間の世界を浮かび上がらせる。山の生活は文章に書いてある以上に貧苦と過酷さがあったと想像するが、宮本の描く山岳民の姿は慎ましくとともに平地民以上のエネルギーが感じられるのである。同様のエネルギーが宮本の素朴で柔らかな文体のなかにも見え隠れしている。