松本陽子のうごめく絵画

国立新美術館で「光 松本陽子/野口里佳」を見る。光をタイトル、テーマに2人の芸術家を取り上げているのだが、絵画と写真の2つの個展が隣り合わせにそれぞれ勝手に行われているという、企画の主旨が掴みにくい感じだ。展示全体の印象はさておき、だが、あの松本陽子の絵画が再びメジャーの大舞台に立ち現れ、ピックアップされるという喜ばしい出来事の比喩的な意味では、光という言葉がふさわしい。僕にとって松本陽子の絵画は、アメリカ抽象画のそうそうたる大画家たちと並べても遜色はないと思っているぐらいだ。現代絵画の巨匠としてもっと評価されるべきはずなのに、エンターテインメント主流になりつつある日本美術界で片隅に追いやられ、忘れられた存在になろうとしている感が否めなかった(そういう優れた画家はいっぱいいるのだし、その系譜を辿ろうとする若い画家もちらほらいる)。

1980年代から1990年代に至るピンク時代の大きな作品群に囲まれている時、これまでにない精神的な高ぶりを感じる。マーク・ロスコやニューマン・バネットの大作に向かった時の崇高的な感じとは違う、心躍るような活気がますます高まるような感じだ。かといって全面的にポジティブなイメージを放っているわけでもない、どこか歴史の負を感じさせる不穏な佇まいもある。ピンクのほかに茶色、灰色、黒色などが互いに混じっている雲のような得体のしれない画面の表層を凝視するとともに身体全体で受け止めていると、アメーバのようなミクロではない、天地創造的(大げさですが)なマクロなうごめきが躍動し、生命体のエネルギーを与えられた見る者の新たな魂が絵画と格闘する作家の孤高な魂へとリンクさせられるような幸福な錯覚を覚える。隣室の野口里佳の写真に感じた知的で現在的に進行するニュートラルな印象とは対照的に、松本陽子の絵画は愚直なまでにも作家の強烈な主体性が立ち現れてくる(あえて悪く言えば作家のキャリアをスタートさせた1980年代に立ち止まった作家の主体性。それを打開しようとしたのが最近の緑の油彩画連作なのではないだろうか?)。それは写真と絵画というメディアの違いというのもあるが、その違いをはるかに超えた自我意識と絵画信仰による作家自身のもつ世界のあり方なのだろうと僕は思う。