続・「表現の不自由展・その後」

 萩生田光一文部科学相就任によって、《表現の不自由》は完成された。「あいちトリエンナーレ2019」への補助金(7800万円)を交付しないことを決定したからだ。「ガソリン缶を持って行く」の脅迫・テロ予告ファックスから河村たかし名古屋市長視察による《平和の少女像》の展示中止と撤去要請の流れで中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」問題の波紋は、あいちトリエンナーレ全体にまでおよび、芸術表現の命綱である表現の自由そのものが完膚なきまでに否定されてしまった。《表現の不自由》の完成は萩生田大臣のひとりによって行われたのではなく、右翼系市民が火をつけ、減税日本と維新の会がアシストし、安倍首相から友達のよしみで指名を受けた萩生田が最後の一筆(とどめの一撃)を入れた、権力者の共同作品である。

 文化庁はあいちトリエンナーレへの補助金全額不交付の理由として、⑴ 実現可能な内容になっているか、⑵ 事業の継続が見込まれるか、の2点において適正な審査を行うことができなかった手続きの問題を挙げている。⑴ については、あいちトリエンナーレ開催前に展示内容を確認し、今回問題になった企画展の「表現の不自由展・その後」も開かれた事実があるにも関わらず、脅迫・テロ予告によって中止になったことを取り上げて ⑴ の内容に照らし合わせた。手続きの順序を無視した矛盾が生じてしまい、脅迫・テロ予告の犯罪行為を真っ先に責めなければならないはずなのに、後付けの理由で不交付にした行為は無情の理不尽以外のなにものでもない。⑵ については「表現の不自由展・その後」の中止の後、大村秀章愛知県知事を筆頭に実行委員会や関係者たちが再開に向けて動いているし、あいちトリエンナーレ全体は継続して行われている。部分の中止によって全体が継続していないとの自己都合で支離滅裂なロジックによって一方的に断定する。文化庁のいう「円滑な運営」ができる作品や企画展しか補助金が出なくなることは文化行政が担うべきの公共性が無効になった検閲主義が跋扈し、アーティストへの萎縮的効果だけが拡大していくだろう。

 今後は意識的にしろ無意識的にしろ、文化庁の顔色をうかがいながら芸術作品を制作せざるをえなくなるアーティストや展示企画を立てるキュレーター・学芸員が増えてくるかもしれない。資本主義(アートマーケット)に親和性を持つ現代アートや飾り物としてそこそこ作品が売れる無毒無害なアート界隈にはそのようなことはあまり関係のないこととして映っているだろうし、日本の美術界は表面的にはこれまでとあまり変わりなく動いていくのではないかという絶望的な推測がどうしても出てきてしまう。その一方で「表現の不自由展・その後」展の出品作品の一部にある政治的意識を明示したアートは拒否される代わりに抵抗的存在を顕在化(先鋭化)していくことも考えられる。それらの二極化の進行が今後の日本美術界状況を形成するかもしれない。造形表現や美学的領域へ洞察するタイプの作品は社会的接点が見出されにくいが為に権力側の検閲に引っかからない、ある意味変な誤解(迎合的な作品としての印象)を受けるか、作品の中にある不分子の要素を嗅ぎつけられ、時代にふさわしくないものとして排除されるか、どちらに転ぶか判らない危うさを内包した存在としての可能性(前例)はある。表現の自由は全ての芸術作品を均等に包含していることを必然的なテーゼと認識したうえで、こうも考えてしまう。どちらの側にも当てはまらない複雑な強度を持ち、両側のあいだを行き来する(揺れ動く)ような制作態度を持った表現から生まれる類の作品は権力による政治的混乱の中で埋没してしまうのではないかと。だが、ナチスの「退廃芸術展」に展示された様々な作品が現在において人々の関心を惹きつけている事実があるように、真に価値ある芸術作品には全体主義体制や不穏な時代を括り抜けて生き延びてきた不屈の精神が存在しているのだ。しがない画家の端くれの僕としては、大小どのような形にしろ表現の自由、芸術の自由についてのアクションを続けていくが、とりあえず今はセザンヌとクレーの作品を目の前にして落ち着きたい欲に駆られている。