F・カストロとO・ストーン

革命の父フィデル・カストロとハリウッドの怪物オリバー・ストーンのコンビはすごい。車の後部席で体を密着させながらジョークを言い合ったり、並列に置かれた椅子に二人そろってもたれ掛ける光景は、ただの酔っ払いオッサンの絡み合いにしかみえない。(0・ストーンは実際にも飲酒運転逮捕されているけど)
0・ストーンはこの「コマンダンテ」の後に、「ワールド・トレード・センター」を撮るのだが、この二つの映画の間には大きな隔たりがあるような気がする。(その間に「アレキサンダー」を撮ってはいるが)製作の時、政治的しがらみなどさまざまな背景があったかもしれないだろうが、結果的に「WTC」にはアメリカ的ナショナリズムの印象が拭えない映画となり、センチメンタリズムにさえなっている。だが、「コマンダンテ」は狂気の渦巻きを撒き散らした「ナチュラル・ボーン・キラーズ」を彷彿させるような、カオス的なイメージが終始通っている。インタビューを中心に構成されているのだが、往来の固定的ショットによるインタビュー画面はほとんど皆無であり、複数のカメラが捕らえたカストロの人物像を他の画面とない交ぜしながらコラージュしていく。その有り様が、現在の世界がまさにそうであるかのように混沌、無秩序、ノイズな騒がしい光景となっている。それでも、混沌としたなかに映るカストロはユーモアな面を見せつつも、ぶれない強靭な存在感を放っている。世界規模の資本主義化浸透に最後まで抵抗するカストロの生き方が画面を通して見えてくる。半世紀近く権力を手離さない独裁者ではあるけれど、キューバ国民から心の底から支持されている理由の一つがそこにはあるのだと思う。
カストロへのインタビュー画面と織り交ぜるように、過去のニュース映像がおびただしく次から次へと雪崩れてくる。若きカストロキューバ革命、英雄の演説を聞く群集、チェ・ゲバラフルシチョフキューバ危機、ジョン・F・ケネディ、ローマ教王、ハバナの街並み、見る側はイメージの洪水を無防備に浴びる。これらのイメージは過去はこんなことがあったという事実性を見る側に与えるのだが、イメージはイメージでしかない。人々は事実性のあるイメージを眼前にして主観的な想像を働かせることはあっても、終いにはあやふやな印象でしかない。記憶と戯れるのみであり、映像による確信性はない。ただ外観と表層が動いているだけである。それでも、人々はこのようなイメージと一生付き合っていくしかないのであろう。