サイレント映画

久しぶりにサイレント映画を見る。
今日の映画は、トーキー以後画面に音が付着してから、映像と音声が一心同体のようにワンセットになっている。どちらかが欠けていれば映画として成立しなくなり、観客からはそっぽを向かれてしまう。それだけ、今日の映画にとって音声の存在は必然的というか絶対的なものになっている。あのゴダールでさえ、映像と音声の関わりを探究し、ソニマージュ(音響son+映像image)という概念を生み出した。今の時代にサイレント映画を撮ろうとするなら、笑い者にされるか、全く無視されるかのどちらかになるのがおちだろう。音声を剥奪された映画を聴者が想像するとどうなるかは、見えている。それでも、映画が誕生した時の音声と色彩が欠落していた歴史の事実は隠蔽することはできない。サイレント映画の時代は映画生誕から約40年間続いた。その間に生まれた数々の映画には、今日の映画からは想像できないくらい、映像の持つ力を最大限に発揮している。つまり、見ることが全てだと言わんばかりかのように、映像だけで画面を構成し、視覚的世界を繰り広げている。サイレント映画の最大のポイントは編集ではないかと思う。今日の映画人のように音声のイメージを持ちながら画面をつくるのではなく、映像のみで世界をどうつくっていくか、そのためには編集の視覚的リズムを探求しなければならなかったのである。その結果、最大級の強度のある映像画面が次々と生まれた。映画とは根元にさかのぼれば、単純に視覚的なものから出発した芸術的媒体である。
現在、それでもサイレント映画をつくり続けている人たちがいる。ろう者である。ろう者の身体性とサイレント映画の物質性には共通的なものがある。世に生誕した時に音声の世界を与えられなかったことであり、視覚的な表現を生み出し世の中に出ていかなければならなかったことである。サイレント映画はトーキー映画に移行されてしまったが、ろう者はろう者のままである。だから、ろう者はサイレント映画をつくるのである。(しかし、人工内耳の技術が進歩し続けるとろう者もサイレント映画みたいになってしまうのだろうか?)