ヴィック・ムニーズ

渋谷でブラジル人美術作家のヴィック・ムニーズ展を観る。美術史に残るような名作などを、絵具以外の素材、日常生活のなかで身近にあるものを使って描き、それらを写真に収めるという、まわりくどい作品制作過程をもったムニーズの作品なのだが、巨大なプリントの前に立つと、すごい迫力が降りかかってくる。写真なんだけど、絵画でもある、そのとらえようのない戸惑いのある感覚がまず出てくるのだけど、その感覚に対して、その場ではじっくり味わってみる時間を少しも与えてくれず、プリントに鮮明に映る素材ばかり目を奪われてしまう。絵画や写真などの支持体のなかの関係より、美術史、現在の社会、街、自然などの様々な場所との関係が大きく作用する。絵画の体をなしているのだけど、絵画ではなく、アクションである。作品制作過程のなかには、絵画に対する直接性はないが、アクションによって出現する作品は視覚的に伝わる直接性が強い。それは、単純明快さであり、社会への直接性にもつながるのだろう。その時、借用した美術史イメージや絵画的行為の意味は自然発生的に蒸発してゆく。

ゴミを用いた作品は、実際にゴミ処理場で働く人々と共に制作されたそうだが、その作品を前にした時、僕はペドロ・コスタの「コロッサル・ユース」の映画を思い出した。その映画には、職無しの落ちぶれた老黒人が美術館のなかでくつろぐ場面があり、その場に一緒にいた別の貧しい者が、「俺は、この美術館を建てる時、ここで働いたんだよ。だから俺は美術館のなかを自由に出入りする権利があるのさ。」みたいなことを言っていた。ムニーズとゴミ処理場で働く人々が共同制作した作品は、セレブが取り仕切っている高貴な美術界と社会との垣根を取っ払う意図が否応無しに出てくるのであり、その共同制作する行為はかすかな希望を感じさせてくれるし、爽快感もある。だが、「コロッサル・ユース」の美術館の場面は、はるか巨大な社会に対してどうにもやりきれない人々の絶望的状況のなかから生れる儚さと、人間自身が持つ最後の砦にある本能的な強さが悲しげに、そして永遠の美しさが現われるのだ。