日米ステイニング

たまたまなのか、意図的なのかどうか知らないが、同時期にステイニングの大作家である丸山直文とモーリス・ルイスの展示が行われている。両作家ともこのように幾多の作品がまとまった展示は今後もなかなか無いんじゃないか?幸いにも両方の展示を見ることができたのだが、同じステイニング技法でもこんなに違うものかと感じさせられた。丸山の具象性、ルイスの抽象性という表層的差異よりも絵画に対する態度、思考の違いが大きいように思われる。

丸山の作品は、ステイニングという理性的な方法実践から来るのは、明らかであるのだが、初期作品から最近の作品に至る作品の移り変わりを目の当たりにすると、短い年月ながら、時代の空気感、美術界における主な絵画的イメージとぴったりと伴走していることが感じられる。具象性を露わにする最近の作品は、情緒的あるいは、メルヘンチックなイメージの強度をますます上げているようなのだが、誤解を恐れずに言えば、僕にとっては原色だけを使った明るい風景のなかに、何かに対する諦念感みたいなものが否応なく浮上してくるのであり、明るい色調の中の不安感というのが感じられる。また、一歩踏み違えれば現実逃避してしまい、永遠に後戻りできないような危うさもある。丸山の作品は、一作一作描くごとにステイニング技法による綿布への染込みから生れる漠然としたイメージがますます堅固になっていくようである。

それに対して、ルイスのステイニングは漠然としたイメージから遠くはなれようとしている印象がある。「ヴェール」「アンファールド」「ストライプ」という画風の移行を見れば一目瞭然だ。「アンファールド」の中央部分の余白はステイニング技法の主幹である染込みのイメージを白紙にするほど、緊張感が漲ってくる。 ルイスは描き上げたキャンヴァスを木枠に張ることはしなかったそうだ。つまり全体的イメージを見ないことによって、絵画概念の一部を放棄したともいえる。ルイスにとってのステイニング技法はイメージを描くというよりも作家本人が絵具を綿布に染み込ませる過程に立ち会うことのみに利用されたのではないか。木枠に張ったあとの全体的イメージは重要視していなかったのか、あるいは、始めから判っていたことなのかどちらかなのだろう。ルイスにとっての絵画制作はイメージの出現よりも色彩だけと戯れる行為、身体的感覚そのものだけを追究していたのだったと思う。4.3m×3.7mのスペースしかないアトリエの中で行われた色彩(絵具)と物質(綿布)と身体(ルイス)という謎に包まれたトライアングルな緊密関係はしまいには宿命的に絵画平面体へと帰っていく。ルイスの手からはなれた作品は木枠に張られることによって驚異的な絵画的イメージを多くの人々に公にされたのである。ルイスの作品はアメリカの抽象絵画全盛期に見られる巨大なキャンヴァスという点を除けば、同時代的な外にある現実からの影響は全く被らなかった、時代性を超えた普遍性とも違う、真の意味で稀有な孤高作品なのではないか?