「崩壊感覚」

東京国立近代美術館の常設展示をぐるりと回り終えたところのスペースで「崩壊感覚」展を観る。当美術館のコレクションを中心に展示され、こぢんまりとした、だが濃い内容が充満していた。なかでも、池田遥邨の関東大震災スケッチ群にはとても深い興味を持った。日本画家である池田遥邨は、震災直後に京都から東京に駆けつけ400点にものぼる莫大なスケッチ数を描き残した。池田遥邨の被災地スケッチは記録するように描かれた感じがまずこちら側に伝わるのだが、カタストロフィ化した被災地のどこに行っても同じような均質化された風景のなかで、些細なデイテールを拾い上げる作業を無意味の次元にまでエスカレートしていく池田遥邨の一心不乱さのみが顕現する。描かれた被災地の風景を覆うように絵の具を薄めて塗った淡彩の色層がどのスケッチにもあるのだが、デイテールの差異分別作業に我を忘れて熱中する自身に気が付いた後、被災地の茫然自失的な空気を留めるという繰り返しの現れに思えてならない。

池田遥邨の関東大震災スケッチ群の隣には、現在の写真家である宮本隆司阪神・淡路大震災のモノクロ写真が展示されている。宮本隆司の写真は、時間を瞬間凍結し、崩壊した建物や瓦礫群を何にもバックグラウンドをもたない、単にモノ化とした唯物的な印象を我々に突きつける。モノクロのイメージがかえって破壊されたモノたちの生々しさを喚起させるのだが、同時にカメラという機械のもつ無機質な印象も露呈される。宮本隆司の写真が変わり果てた光景を前に冷静沈着な態度で客観的であり、かつクールに眼差しを向ける行為の産物であるとするなら、池田遥邨のスケッチは人間の内面から湧き出てくる衝動的であり、わけのわからないなにものかに翻弄されつづける主観的な体験からくる痕跡である。絵画行為は、作家自身の身体性が直接的に必然的につきまとう表現行為でもある。