「デス・プルーフ」

久々に「これぞ!活劇!」と思わせる映画だった。映画について思いをめぐらしたり、あれこれ言ってみたりするが、結局のところ「映画とは、活劇である。」と大きな声で叫びたくなる。映画を創るには、倫理性の問題を厳格に扱うか、もしくは、正しいモラルなんか問答無用、感覚に沿ってとことんと突き進めるかのどちらかにするべきである。本作は、もちろん後者の方。ラストシーンには、女性3人で1人の男性を顔面殴打ラッシュ。そこまではよかったが、その後、女性の1人が地面に倒れた男性の顔に足のかかとでぐしゃりと、とどめの一撃。あれは、僕はさすがに生理的にみていられなかった。それでもスカッとラストシーンを迎える僕のなかには、もはやモラルなんて無き等しき状態だった。これを暴力映画の一般社会への悪しき影響とみるかそんなことはどうでもいい。だって、世の中にはいろんな形の暴力がうじゃうじゃ溢れているし(もちろん暴力を肯定しているのではない)、R−15の映倫指定にしてある以上、大人たちはこの映画をあくまでも虚構の世界としての作品として受け止めればいいのだから。それが出来なければ、世の中でしなやかに生きることはできないと思う。

それよりも、カーチェイス!カーチェイスだよ!僕にとっては、すごく久しぶりだ。あれは、視ることの幸福を我々にもたらしてくれる。映画はせっかく運動しているのだから、もっとやってもらわなきゃ。前半はギャルたちのだらだらとした無意味な会話がずっと続いていて、それがいきなりカーチェイスの登場なのだから、その場面転換が映像的にも展開的にも効果抜群で素晴らしい。だらだらとした会話も字幕でみるかぎり、スピーディでリズム感があり、観る者によっては、心地よい映像画面にも成りえる。クエンティン・タランティーノは、よくも薄っぺらな内容を2時間近くまで引き伸ばし、面白い内容に展開させたものだ。それは、映像は動くものであるという基本的な事実を監督自身の身体が敏感に感じ取っているからこそ出来たのだろう。60年〜70年代のグランドハウスあるいはB級映画へのオマージュの形をとっているこの映画では、使い古しのフィルムによく見られる傷やノイズが故意的に画面の表層に付着されている。最近はテレビでもよく利用されているが、それとは比べ物にならないくらいリアルに出来ていた。この行為がなされたこの映画もまた使いまわされ、30〜40年後になって再び我々の前に現れるとしたらどんな風になっているのだろうか?という興味も湧いてくる。