「早春物語」

澤井信一郎の「早春物語」を観る。不思議な映画だ。80年代のバブル最中に撮られたこの映画は、かつてない不況に見舞われている現在のなかで観ると時代錯誤的な印象ばかりが目につく。社会状況のズレだけでなく、欧米コンプレックス丸出しの描写にも失笑してしまう。日本国内なのに、パーティ会場やレストラン、空港などの場面には、必ずといっていいほど外国人が画面に納まるように計算的配置されている。原田知世演じる主人公はベタ過ぎるほど、大仰な演技を最後まで貫き通す。ラストシーンの林隆三演じる梶川を見送ったあとの歩くシーンはあまりにも肩に力が入りすぎて変な感じを通して恐怖さえ感じてしまう。主人公がほのかな想いを抱く梶川の人物描写も鼻持ちならない。(しかし、エリートビジネスマンの役柄にしては、林はしょぼくれている感じだ。スーツもしわくちゃだし。) 

だが、この映画を支配しているバブル時代から必然的に生れざるをえないキザな描写表現や紋切型な物語構成も澤井監督のカメラワークにかかると、それぞれのシーンが別の方面から魅力的なベールに覆われ、生き生きとした躍動感あふれるシーンに成り変わっていくかのようだ。一言で言えば「映画を見ている」というごく全うな感覚や幸福感が出てくる。シークエンスの的確なカットつなぎや流麗な移動撮影のセンスの良さも素晴らしい。だが、ラストシーンの肩に力を入れすぎた原田の歩くシーンの見事なカットバックには圧倒される。澤井監督のなげやりな演出(特に原田に対する)と的確なカメラワークのアンバランスさがこの映画を不思議な作品にしている。ベタな物語描写でもこんなに魅力的に映るのだから、映画とはやはりストーリー表現より撮影表現が優先されるべきなのだ。どんな内容になるにしても映画の内部から生れる運動を少しでも目の当たりにすると、とても幸せな気分になれる。