シュルレアリスム展

所用の前にシュルレアリスム展へ行ってきた。平日の昼中にもかかわらず混雑していた。ゴッホ展の時もそうだったけど、日本人は本当に美術が好きな国民性なのだろうかと未だに真相がつかめずにいる。過去の絵画展と現在進行形の現代美術系の展示との入場混雑度はあまりにもギャップがありすぎるのだから。表象的には、ゴッホなど印象派の絵画よりシュルレアリスムの美術のほうが抽象度が高いし、現代美術系の作品とあまり変わりないようだけど、この混雑ぶりはなんだろうかとどうでもいいことに無名の画家は悶々している。
会場内では、シュルレアリスムの歴史を時期ごとに分けて展示構成されているのだが、それぞれのクールに入るところに章ごとの解説ボードが配置されている。解説というより、シュルレアリスム運動の中心的人物であるアンドレ・ブルトンの言葉やシュルレアリスムに関わってきた詩人や文学者の言葉が引用されているのがほとんどである。その文章がとても読みづらい(少なくとも僕にとっては)。これは日本語に翻訳する時に生ずる問題かもしれないが、シュルレアリスムならではの独特な言い回しの印象が強い。と同時にシュルレアリスム運動を理論的に体系化していくという熱情もひしひしと伝わってくる。アンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言を筆頭にシュルレアリスム運動では、多くの雑誌や書籍の出版によって理論的な言葉を生産し続けてきた。無意識、夢、偶然性、反理性、反常識、自動記述、神話、純粋な美などといったおびただしい言葉群に対して、作品群を実際に目の当たりにしてみると、あまたの作品は驚くほど思想や言葉から自立している。キャンヴァスやオブジェという媒体物のうえでただひたすらイメージだけと戯れている。理念の通りに実践されたイメージだけではなく、ただそこにあるイメージという即物的な表現の強度がある。しかし、それらのイメージは現在の生活のなかにある、どこかでみたことがあるような私たちが慣れてしまっているイメージへとフェードしていく。思想と作品が幸福な形で結ばれているかのように見えるが、シュルレアリスムがつくったイメージ群は時代が経つにつれて現在の消費社会のなかにすんなりと抵抗無く溶け込んでしまっているかのようにも見られなくもない。シュルレアリスムの作品は資本主義という世界のなかで無意識に行動している私たちの姿でもあり、シュルレアリスム以外の美術もそのようなイメージの再生産に晒されている。ただ、ジャコメッティの凸凹に肉付けされた細長い人物像以前の初期のオブジェだけが会場内で他の作品から浮いているように見える有り様が頭のなかで妙に引っかかっている。