「ロンリーバタフライ」

ろう者の書いた小説を読んだのは、今までにはなく初めての経験だ。というか、ろう者が小説を出したのは日本では初めてのことではないか?この小説の著者は、女優またはタレントを本職にもつ岡田絵里香。彼女が映画「バベル」に出ていた頃から様々なメディアでのご活躍を度々拝見している。正直あまり期待していなかった分、この小説の内容には少なからず驚嘆している。未完成な文体、文章の読みづらさなど荒削りの作品という印象が真っ先に現われてくるのだが、ほぼ自伝の体をなしている、エリカという主人公とその家族との赤裸々な生活描写によるディテールからほとばしる生命感がすごい。読みづらい文章ではあるものの、スピーディを感じさせる文体の連続性には、社会的弱者を取り囲む情趣的なヒューマニズムを木っ端みじんに砕く力強さが溢れていて、生半可な優しい気持ちなど不必要なほどリアル以上に唯物的だ。父や母が相手であっても生きるか死ぬかの本能的なぶつかり合いの描写はこの上なく痛快な気分にさせられる。不幸な生い立ちのなかろう者として懸命に生きていくというよりも、現代社会の片隅にいる野生児がただひたすら日々の糧にありつくという感じに近い。しかし、様々な人々と出会うことによって社会のなかでの生き方を少しずつ学んでいく人間としてのふるまいも同時に清々しく緻密に描かれている。
ところで、エリカという主人公はろう者の両親から生まれた、手話を話すネイティブのろう者として描かれている。だが、ろう者と手話で話すだけではなく、聴者と口話(音声会話)で話す場面もたびたび出てくる。序盤は会話文の前に手話と口話のどちらかを知らせる箇所があったが、中盤以降そのようなふしは無くなっていく。ろう者と聴者同士の会話はどのような形で進行していったのか?僕は、そこがとても気になる。たんに小説のなかで書き言葉によって勝手に会話が成り立ってしまう甘さが出てきてしまったように思う。そもそも小説のなかに、書き言葉をもたない手話による会話文を入れることは果たして可能なことだろうか。意訳で会話文をつくることはできても、逐語訳で書き言葉=日本語に変えることがほとんど不可能に等しい手話そのものを小説空間のなかに置いた場合のアテンションが少しでもあればこの小説の価値はさらに上がったかもしれない。日本語の場合、明治時代の言文一致運動によって小説に会話文が取り入れられるという流れを汲んでいるのだが、手話による会話文を書き言葉によって小説のなかに導入することはおそらく前例がないのではないか(外国文学の翻訳に生ずる問題とは違ったところにあると思う)。ろう者が小説のなかで書き言葉を使うことの意味を考えることは、今後とても重要なことになるような気がする。新しい日本語あるいは文体(書き言葉)が生まれる可能性があるかもしれない。