「エッセンシャル・キリング」

この映画の登場人物は最初から最後まで逃げることしか映されていなく(回想シーンはあるけど)、しまいには一言も言わずに画面から消えていく。消えたあとには首筋に赤い模様を着色された一頭の白馬が大自然を背景に優雅にさまよっている。瀕死状態の逃亡者は魂の底辺から絞り出すように口元から赤い絵具をリズミカルな動作をする白いキャンバスに次々と塗っていく。このあまりにも美しいペインティックは死と美が表裏一体であることをさらりと教えてくれる。スコリモフスキは極限状態の行きつく果てには自然の美ではなく人間存在から美が出現するのだとでも言っているかのようだ。絵画制作のような光景であり白と赤のコントラストの鮮やかさに引きつけられるのだが、白と赤の絵画的イメージではなく死んでゆくという身体的身振りのアクションによって死と美の親近関係が顕在化していく。

極限状態のなかを限りなく逃走していると野生動物のようになっていく。出会った人間を躊躇なく殺害し、アリや木の皮を食べ、他の動物を威嚇し、しまいには妊婦の母乳を吸ってしまう。だが、逃亡者はぎりぎりのところで人間としての精神をかろうじて保っている。追い手の存在が逃亡者の内にある人間であることの意識を持続させている。つまり他者によって自分自身のなかに存在する人間性が出現するのである。台詞がひとつもない状況のなかで逃亡者は人間と動物(アニマル)の境目を行ったり来たりするのだが、ラストでは耳の聴こえない女性(台詞を持たない登場人物にあわせるかのように言葉を話さないというステロタイプのろう者の人物像を設定したふしがないでもない)の人間的ふるまいによって、死の直前に精神的交流が繰り広げられていく。大自然のなかに放置されても、言語行為が失われても人間はどこまでも人間であるしかない。この映画は究極の人間讃歌によって撮られているのである。