《風景論以後|After the Landscape Theory》:東京都写真美術館

 東京都写真美術館の地下1階で《風景論以後》の展覧会が催されているのだが、展覧会としての「ハレ」というよりかは、何の変哲もない日常的な風景としての「ケ」がひっそりと展示されている印象があり、そういう意味では地下の空間がふさわしいように感じられもしないではない。もちろん何の変哲もない日常的な風景とは均質化・都市化された風景であり、その背後には何か得体の知れないとてつもない巨大なものが立ちはだかっている。だが、そのような「見えるものと見えないもの」との可視/不可視の関係とは別に、日常的風景を切り取った写真や映像の画面に映る唯物的イメージとしての風景そのものの表層に触れるだけでも、観る者の感性は大いに揺さぶられる。本展の最初のスペース(入口と出口を兼ねた円観的スペースでもあった)で、早くもその感性的動揺が引き起こされてくる。広島平和記念公園とその周辺を撮ったという笹岡啓子の写真は、予備知識なしに対峙することになったのだが、どこにでもある都市の一風景とそのなかに映る匿名的人物の何やら不穏な関係を思わせつつも、唯物的(表層的)な都市イメージが観る者の視線を停滞させない現代的なドライ感覚をそれぞれの画面に定着しているようでもある。だが、進展していく視線が何かに引っ張られているような感覚が同時に生起し、そのような感覚の源泉が、唯一赤い画面になっている写真にあることを認識した瞬間、広島市の都市風景でもあり、広島市以外の都市風景でもあるのだというニュートラルな感触が僕の頭のなかを突き抜けたような気がしたのである。だが、そのニュートラルな感触を誘き出したのも「広島」であるという揺るぎない事実性から観る者は逃れることはできない。撮られた対象の具現性と対象をめぐる観念性が交錯するなかで浮上するひとつの都市風景。モンタージュの一片をかたどる歴史と記憶の赤いディテールは、特定の場所の過去と現在のあいだにある距離感の不確かさを示しているが、そのような表層にある赤い痕跡と観る者との邂逅でさえ、プリントのつるりとした表層性(物質としての平面性)に還元され、イメージの無限性に委ねられてしまうことの不可避性、あるいは理不尽さをも内包している(8月6日の広島市街を覆いつくす「赤」の悲劇的イメージと広島カープアイデンティティーカラーである「赤」の横すべり)。

 このように本展は笹岡の2010~2020年代の継続した写真から始まり、3章と最終章の1970年代前後の風景論につながっていくことになる、政治性をおびたドキュメンタリー映画やフィクション映画(のアーカイブ)にまで遡っている。『東京战争戦後秘話』(大島渚・1970)と『ゆけゆけ二度目の処女』(若松孝二・1969)の若い男性と女性を包み込む都市風景や『略称・連続射殺魔』(足立正生松田政男他4名・1969)の永田則夫死刑囚が目にしたであろう日本列島を横断する数々の風景と現在の風景とでは何もかもが大きく変化しているが、風景と人物の関係性そのものは過去も現在もまぎれもなく画面に直裁的に映り(永山則夫は見えない存在の対象として)、その戯れが唯物的にも観念的にも拡張していく様相は変わりない。政治性の上に立つ風景の表層には国家と資本の権力を暗示する見えないフイルターがかかっているという、現実的でもあり幻想的でもあるような「想像力」自体に寄りかかってもいるが、1970年代の風景にはかろうじて見えていた貧困と格差が2000年代以降の風景にはほとんど不可視の領域に入ってしまっているような気がする。無味乾燥と化した現在の風景は見えないものの不気味さでさえ蒸発してしまったようでもある。中平卓馬は〈だから今その来たるべき変身のために、ぼくは全てをまさしくぼくに敵対する「風景」としてみつづける。そしてぼくは待つ、次は火だ!〉と発言しているが、現代の人間にはそのような挑発が不可能となりかかっているのかもしれないと考えるのは早計だろうか。ところで、崟利子の映像作品にはヘッドホンが用意されていて、スタッフからも「どうぞ」みたいなことを言われたので、僕は「耳が聞こえません」の身振りを示して遠慮した。そういえば、本展の作品は写真と映像が半々の感じだったが、映像に映る風景は必然的に音声がついているし、生の風景も様々な音が紛れ込んでいる事実にあらためて気付かされる。当たり前すぎてこう言うのも変な感じがしないわけではないのだが、むしろ逆にろう者である僕は、映像をサイレントのまま普通に受け取っている。音声の有無で、風景あるいは映像から受ける印象は異なってくるのかそれとも異ならないのかは、やはり気になることではある。本展ではやはり映像作品より、笹岡啓子、清野賀子、中平卓馬の写真作品に集中していたこともその表れといえるのかもしれない(遠藤麻衣子の映画を除いて、1970年前後の5本の映画は以前に観たということもあるが)。音のある風景とは写真には映りえない過剰なる風景であり、(聞こえない僕にとって)及ぶべくもない異様な風景となっているのだろうか。それとも、物質的な差異を無効化しえるような同質の風景として互いに存在しているのだろうか。ろう者と写真と映像をめぐる関係について、いつか論考できればと思う(論考する力があればいいのだが)。

 

《 ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 》:アーティゾン美術館

 遅まきながら、やっと初めてアーティゾン美術館に入ることができた(前身のブリヂストン美術館の時は2、3回くらい観に行ったと思う)。絵を描く者にとって魅惑的であるはずの展覧会タイトル、《ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開》の文字を一度目にした以上、アーティゾン美術館に行かないわけにはいかなかった。約250点の作品が展示されていて、1点1点をじっくり見るタイプの僕にとってはかなり疲れる鑑賞になってしまった。アーディゾン美術館は日時指定の完全予約制だが、幸い入替制ではなかったので結果的に3時間を超えてしまった。正直、テーマタイトルにある〈展開〉の部分は別の展覧会にしてもいいんじゃないかと思うくらい、(大雑把に分けて)〈覚醒〉あたりの作品と〈展開〉あたりの作品の間には同じ抽象絵画でも大きな隔たりがあったように感じた。セレクション4〈日本における抽象絵画の萌芽と展開〉とセレクション5〈熱い抽象と叙情的抽象〉の間に明確なボーダーラインが存在しているように見受けられる。さらにセレクション8〈戦後日本の抽象絵画の展開〉とセレクション9〈具体美術協会〉の間に別のボーダーラインがあり、ラストのセレクション12〈現代の作家たち〉では別の境地に入った感じである(内容的にも物理的にも空間的にも)。やはり僕の興味と興奮は、セレクション1〈抽象芸術の源泉〉からセレクション4までのゾーンにある数多の作品群に集中していた。本展覧会の入口に、いきなりセザンヌの『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』が出現し、抽象絵画セザンヌから始まるのだという当展覧会の意図がひしひしと伝わってくる。セレクション1ではセザンヌの他に印象派の作品が一緒に展示されているが、抽象絵画印象派から始まったことよりもセザンヌから始まったことのほうに真実味があると納得せざるをえないような認識がセレクション1の展示を観終えた後に高まってくる。セザンヌの対象物への視点が色面、コンポジション、画面のリズムに凝集されているのを見ると、セザンヌを形容する〈近代美術の父〉の「近代美術」が「抽象絵画」と同義であることが改めてわかるのである。当展覧会の、あるいは今回一挙公開される新収蔵作品の目玉作品としてポスターやチラシに使われている、フランティセック・クプカ『赤い背景のエチュード』(1920-1921)とロベール・ドローネー『街の窓』(1912)は実物を見ると小規模な作品でありながらも、素晴らしい見応えをありありと感じる作品だった。クプカの作品は赤を主調とした画面をダイナミックに展開しつつも、部分部分には図形の形態や色のグラデーションに対する配慮を感じることができる。ダイナミックで単純化した絵画の構図には、外界にある対象を超越した主観的な世界を表している。ドローネーの作品は寒色系の色面が規則的に重なり合って構成されている。『街の窓』のタイトルにあるように、窓の向こうにある街の風景を格子状に解体、再構成していて、規則的なリズムや動き、奥行きが生み出されている。クプカもドローネーも外部から内部へのベクトルで絵画的イメージを生成しているが、イメージや感性の曖昧さに委ねることなく、世界の構造を絵画の構造に重ねるような事象事物の本質への接近を目指したタッチの集積というのを感じられる。約250点という膨大な作品群の中で、個人的にハイライトだったのは、パブロ・ピカソの『立てる裸婦(三人の女)』(1907/08)、『女の胸像(フェルナンド・オリヴィエ)』(1909)、『立てる裸婦』(1909)の3作品。紙に水彩やグワッシュで描いた習作のような作品だが(『女の胸像』はほとんどタブローの作品という感じだったが)、3点とも20号くらいのなかなかのサイズ感がある。同時期に描かれた女性の全身像や胸像は全て線と面の要素に解体されている。セザンヌの多角的な視点を取り入れた形態へのアプローチをさらに発展させた分析的キュビズムの始まりを窺わせる。パリ時代の恋人だったフェルナンド・オリヴィエの上半身体が無慈悲にも分解・組立され、寒色系の限られた色彩で描かれたイメージの再構成は、ジョルジョ・ブラックとともに無味乾燥な抽象化へと向かっていく。対象の具体性を完全に置き去ることなく、対象のもつ形状をもとにして画面を抽象的に構築した作家たちへの信頼感というのは、何もノスタルジックなものではなく、むしろ全てが表現し尽くされ、何もかもが混沌とした現代世界のなかに生きる自分の指針のひとつとしてある。

マティス展:東京都美術館

 大規模な回顧展としては約20年ぶりの「マティス展」の鑑賞を目的に、東京都美術館へ勇気をもって行ったのだが(混雑が苦手なので)、東京都美術館に入館するのも約20年ぶりどころが、それ以上ぶりのような気がする。当時何の展覧会を観たんだっけ?と必死に思い出そうとしたが、観賞する立場ではなく、展示する立場だったことをすっかり忘れていた。東京五美術大学連合卒業・修了制作展、いわゆる五美大展に出品・展示したのであった。現在は六本木にある国立新美術館で開催されているが、僕が学生だった頃は東京都美術館で毎年開催されていた。五美大といっても私立美大のみで、芸大は含まれていない。芸大オンリーの落第者が集まっていた僕の母校の同期生たち(僕も含めて)は都美術館の隣にある芸大の燦然たる存在に、卒業目前になって、大学入学時に持っていた未練と屈折が入り混じった感情が掘り起こされたような、そうでもないような、微妙な空気感が母校のブースの中で漂っていたことは今になってはものすごく懐かしい(実際、僕の母校からは芸大の大学院に行く人が毎年一定数いた)。一方、入り口が外に開放された地下1階という独特な構造と、2階にあるレストランで食べたカレーがとても美味しかったという、視覚空間と味覚・嗅覚の記憶が、会場に着いた瞬間鮮やかに蘇ってきた。

 さて、本題に入るが、マティス展はアンリ・マティスの絵画遍歴を辿るようにして、年代順に展示されている。第1章から第8章までの各章ごとに展示ギャラリーが分かれているのだが、各章のテーマを順に並べてみるとこうだ。〈フォーヴィスムに向かって〉〈ラディカルな探求の時代〉〈並行する探求ー彫刻と絵画〉〈人物と室内〉〈広がりと実験〉〈ニースからヴァンスへ〉〈切り紙絵と最晩年の作品〉〈ヴァンス・ロザリオ礼拝堂〉。第一章の〈フォーヴィスムに向かって〉の「豪奢、静粛、逸楽」(1904年)と「豪奢Ⅰ」(1907年)の2点で、早くもマティスの真骨頂を目の当たりにしてしまった感があるのだが(あくまで当展覧会の範囲内としてです)、その後の作品を全て見回った後であらためて、その感触が確かなものとして湧き起こる。もちろん僕自身の個人的な感触に過ぎないのだが、「豪奢、静粛、逸楽」の筆触分割の技法にある色彩に対する繊細さと、「豪奢Ⅰ」の調和と秩序を破壊する勢いを瞬時に凍結させたような大胆さとが二対になった展示のコントラストだけでフォーヴィスムの頂点に到達していることを十二分に思わせる。セザンヌの「水浴」シリーズとの類似性を匂わせる「豪奢Ⅰ」は裸の女性たちのおおらかな佇まいが荒々しい筆触によって描かれている。迷いのないストロークやタッチが配色の調和や均衡を突き破って色面と輪郭の融合的なイメージを醸し出しているが、唯一無二な絵画的センスから生まれた大胆かつ正統な構図がそのようなイメージを支えている。裸の女性といった絵画表象はセザンヌも含まれるのだが、西洋美術史の系譜を引くモチーフとして脈々と受け継がれている(ギリシャ神話)。西洋圏に所属する画家としての身分が絵画のモチーフや絵画技法と惜しげもなく堂々と結託されているような関係は、第4章〈人物と室内〉と第5章〈広がりと実験〉の革新的な作品群に潜むオリエンタリズムな感覚と最終章〈ヴァンス・ロザリオ礼拝堂〉のキリスト教精神に繋がっている。モチーフや光に対する純粋な感覚を発揮するマティスの仕事には、日本人が到底触れることのできない文化的差異の見えないフィルターが重層している。たとえば、セザンヌは絵画の唯物性への徹底化によって西洋性から逸脱していくような側面があると思うのだが、それにたいして、マティスの絵画には西洋的な絵画表象がどこまでもつきまとっているよう印象が全体的に漂っている。そういう意味でいえば、僕にとってはセザンヌよりマティスのほうに一筋縄ではいかないイメージの複雑さを感じる。第7章の切り紙絵は、紙とハサミを使って第1章の〈フォーヴィスムに向かって〉の作品群で展開されている表現方法に戻ったかのように、色彩と線描という2つの造形要素の統一化が極めてシンプルな形で見事に実現されている。ふいと文化的格差を意識してしまうような異次元的に突き抜けた絵画的センスを内包しているのがマティスの絵画作品であると言ったら、言い過ぎだろうか。

《 聴者を演じるということ 序論 》:北千住BUoYギャラリー 【ネタバレが含まれているのでご注意ください】

 保険会社の上司と部下とおぼしき男女の2人が(架空の)お客さまを帰らしたあと、テーブルに着席する。テーブル上で繰り広げられる、たわいない会話劇は音声による対話(という形)で行われるのだが、演じている2人はろう者である。《 聴者を演じるということ 序論 》のタイトル通り、2人のろう者は聴者の役を演じている。テレビドラマや映画等で聴者が演じるろう者の表象が次々と発生している昨今の現象が、ろう者自身によって反転されていると言ったらいいだろうか。2人の会話劇は約10分くらいで終わりを迎え暗転したところに、本作を演出した牧原が登場する。牧原は観客に、2人の芝居にたいして修正点があれば、2人の役者に具体的に指導してほしいとレクチャーする。再び芝居が行われた後に1人のろう者と2人の聴者が観客の前に出てきて、牧原がお願いしたことを実践している。修正を施された2人のろう役者は改変した3度目の会話劇を行う。最後に、2人の出演者(數見・山田)と牧原のトークが行われている。芝居の反復、レクチャー、フィードバック、トークが連続した本作は、演劇作品なのか、それともワークショップなのか、どっちつかずの状態であったのだが、様々な要素がひとまとめにされ、観客の参加を要請する作品形態はソーシャリー・エンゲイジド・アートの一種と言っていいかもしれない。牧原によるレクチャーの後に、2度目の会話劇を1度目の時以上に意識して観察したのだけれど(1度目の時の「鑑賞」する態が、「観察」する態に急転させられる)、ろう者である僕には修正点を見つけることは限りなく不可能に近かった。なんとなくそれかな?と思ったのは1、2箇所あったような気がしたけれど、僕にとってはアイロニーとパロディーが合わさった感覚を抱きながら2人の会話劇に接していたので、観客の前に出て発表するという行為にはなかなか結びつかなかった。しかし、観客からろう者の1人が出てきて、真面目に(語弊を招きかねないようだが、「真摯に対応する」的な意味として)修正点を発表する姿を目の当たりにして、僕のなかで多少の混乱と戸惑いが生じてしまう。ろう者に続いて2人の聴者が発表するのだが、演じられる対象の聴者であるがゆえに、ろう者が演じる聴者像の不自然さについて、より真面目に的確に指摘している印象をもたらしていた。発表された修正点は大まかに言えば、聴者が会話をする時の視線の使い方、間の取り方、相手の言葉に違和感を感じた時の返し方(イントネーションの度合い等)であった。ろう者は見えるものとしての身体的動作から言及しているのにたいして、聴者はコミュニケーションとしての音声的特徴から言及している。当事者として言及する聴者の姿はこの場において、何か奇妙な感じを受けるのである。だが、聴者はろう者が発話する発音そのものについては言及されていない(もしかして口パクなのかな?と一瞬思ったが、トークで牧原が同様の発言をしていた)。音声台詞の根幹であるはずの発音そのものがスルーされている状況にたいする収まりのつかなさ、あるいはある種の居心地の悪さ。タブー化されたままフィードバックされたことは、牧原にとっては想定内の出来事だったのかもしれない。フィードバック以前と以後の会話劇には、確かに変化したところはあったような気がするが、ろう者の僕にとっては、変化にたいする認識があやふやなまま、漠然とした印象を受けざるをえなかった。しかし、こう考えることもできるのではないだろうか。「ろう者による聴者の表象不可能性」が揺るぎない事実としてあるということを。ろう者の役者が自身の声と相手の言葉を知ることなく音声の会話を演じ続けることの不条理性。ろう者と聴者の身体性の差異は、ろう者と聴者のみならず世間一般が思っている以上に微細さと深淵さが内在し、2つの身体のあいだに大きな断絶が横たわっている。視ることと聴くことのどちらかに主体が置かれることによって、異なる身体感覚や身体行為が両方の身体にそれぞれに蓄積されている。だが、そのような身体性がフイクションの空間においてどこまで機能し得るのかを考えるには、その人のスタンスや思想の問題にまで及んでしまう。

 ここまで話が来れば、自ずと昨今の社会現象としての「聴者がろう者を演じること」に再び反転されることになり、「聴者によるろう者の表象不可能性」としての事実性があらためて浮上してくるのである。しかしながら、依然として聴者が演じるろう者の表象が後を絶たないのは、(主に日本の)テレビ・映画業界が視聴率や興行面などを重視し、経済的なリスクを回避するといったマーケティングな視点に未だに縛られているからである。少なからず作品が世に出ることは大小にかかわらず流通に乗ることでもあるので、マーケット事情の面では百歩譲るとしても、何故これほどまでに「聴者がろう者を演じる」ことにためらわずにいられるのか。その理由のひとつに「フィクションとしての演技性にたいする正当性」への潜在的依拠というのが考えられる。ろう者の役にろう者の俳優がキャスティングされない現実には、マイノリティの俳優への機会の不平等という根源的な問題があり、その問題が解決されない限り、「フィクションとしての演技性」はマジョリティの権力的構造を温存するロジックとして内面化(無意識化)されることになってしまう。ろう者・手話のモチーフがある無いにかかわらず、作品を評価するのはマジョリティの聴者が中心であり、聴者の価値基準によって作品をめぐる動向が過去も現在も支配されている。聴者の価値判断に「フィクションとしての演技性」が含まれていることを前提として考えるならば、本作は、当事者としてのリアリズム=「本当らしさ」にたいする距離感、どこまで他者を演じられるのか、そこにどんな意味が発生するのか、聴者とろう者の演技は交換可能なのか、といった直接的かつ実践的な問いかけを通して、ろう者あるいはマイノリティの立場から「フィクションとしての演技性」の核心に迫っているようにも思えるのである。數見と山田による聴者役の演技は、聴者像の表層的リアリズムに徹底し、外面から(聴者の)内面に侵食(同化ではない)していくような異様な迫力を放っていた。演技そのものの緊迫を感じれば感じるほど「聴者が演じるろう者像」にたいするアイロニカルな感情が引き起こされる倒錯的な状態が役者と観客のあいだで生起しているようである。本作は参加型アートの性質を有し、カテゴリーとしての「聴者」と「ろう者」を対置しているが、二項対立の関係性を逸脱するような、得たいのしれない何かが2人の演技から滲み出ている。トーク内で、聴者を演じるための訓練に多くの時間を費やしたことが話されていたように、聴者そのもののリアリズムに徹底していたとはいえ、表層的になぞることの不確実性が前景化している。訓練に費やした時間に対するフィードバックのあっけなさは意図通りなのかどうかは牧原に聞くより他ないが、ろう者の身体で演じられる聴者像の不透明さは、言うまでもなく「聴者が演じるろう者像」の空虚さにつながっていくのである。ろう者が聴者を演じることそのものを主題とした本作には、ろう者の深川勝三が撮った映画『たき火』(1972年)の存在が大きく関わっていることが考えられるのかもしれない。『たき火』ではろう者が聴者を演じるシーンが多く見られるのだが、その不自然さがどうのこうのよりもその演技には瑞々しさが溢れている。口パクの演技(おそらくそうだろうと推測するしかないが)やサイレント映画であることを差し引いても、リアリズムの真実性を超えた「フィクションとしての演技性」への純粋な信託が現れているのだ。当事者性はリアリズムを求めることでもあるが、深川は映画が虚構の世界でしかないことを無条件に受け入れている。『たき火』の俳優はストーリー上において登場人物の固有性を演じているのにたいして、本作の數見と山田は社会的存在の「ろう者」の身体性を通して「聴者」を演じている。だが結果的に、2人の演技は社会的意味からはみ出され、數見と山田のそれぞれがなりきる虚構的人物としての「聴者」そのものが出現している。フィードバックした後の会話劇では、そのような規定外のものが回収されていくことになるが、その異様な残像は時間が経過するほどに色濃くなってくる。「演じることの他者性」が『たき火』では陶酔感と享楽さのなかで実現され、數見と山田の会話劇では緊迫した空間のなかで実現されている。「フィクションとしての演技性」は矛盾をはらんだまま「ろう者」と「聴者」のあいだを行き来している。彼岸にたどり着くことの不可能性とフィクションとしての開き直りが同時に存在することが「演じること」の本質なのではないかと思う。《 聴者を演じるということ 序論 》は、マジョリティとマイノリティ、リアリズムとフィクション、音声文化と視覚文化といった「対立」的な視点にたいして、複雑さを抱えたままの思考を促すような作品であるといえよう。

 

今井俊介 スカートと風景 / 東京オペラシティアートギャラリー

 東京オペラシティアートギャラリーにて「今井俊介:スカートと風景」の展示を観る。会場内に設置されているディスプレイのインタビュー映像で、作家本人は絵画とデザインの境界の曖昧さについて語っている。ある時にふと何気なく目にした知人の揺れるスカートの模様にインスピレーションを受けたという今井は、ストライプの模様とカラフルな色彩を組み合わせた同一イメージあるいは同一モチーフを画面(平面)空間の中でヴァリエーション的に展開している。ろう者の僕が音楽用語を使うことの倒錯はひとまず横に置いとくとして、「終わりなき変奏」の修辞的表現を口にしたくなるような印象が観賞の始終、僕の視覚を支配していた。今井の作品は、アクリルによるカンヴァス作品、ポリエステルや布などの生地系の作品、インクジェットプリントの作品といった3つのパターンに分類することができると思うのだが、反復する同一イメージの反面、マテリアル(材質等)の差異がマチエール(肌ざわり等)の差異につながることの物質的直接性といった感触をも受ける。マテリアルの差異を超越するストライプの反復性や独自の色彩感覚が今井の作品の本質であることは言を俟たないのだが、イメージを形成する物質性の侮れなさと揺るぎなさも同時に存在している。インクジェットプリントの表層性とアクリルのタブロー性のあいだには、デザインと絵画の境界の曖昧さがすっぽりと嵌め込まれている。制作風景の写真が展示の一部として公開されているので、今井がどのように作品を制作しているのかを多少知ることができる。パソコンで組み上げた図柄をプリントアウトし、そのプリントを歪ませた状態にしてそれを撮影している。プロジェクターで拡大照射された図柄の輪郭をカンヴァス上でなぞっていく。つまり二次元が三次元を通過し、再び二次元のイメージを獲得するようにして、カンヴァスにデジタルとアナログの両方の手作業のプロセスが刻印されている。ポリエステルや布の作品の展示形態は三次元的だが、あくまで二次元性を帯びた作品にとどまっているのである。ストライプとドットが交錯する平面構成と色彩感覚を前にする際、ジュリアン・オピーとジム・ランビーの作品が何故か僕の頭の隅をよぎってくる。明確な輪郭とコントラストの強い色彩によるフラットなイメージを展開するスタンスに共通なものを感じるが(ジム・ランビーは床の作品に限るけれど)、2人のイギリス人アーティストの現代社会や日常的環境といった側面の多層的な言及性からくるダイレクトな要素やイメージ感覚は今井の作品にはあまり見られず、むしろ無縁であるとさえ言ったほうがいいかもしれない。ダイレクトなイメージは平行的イメージ(フラットの徹底化)であり、政治的バックグラウンドを引き寄せるクールダウン的な要素をともなっている。それにたいして、今井の垂直的イメージ(奥行き)と色彩感覚にはアジア的なカオスとオプティミスティックな純粋性を含有しているように感じる。ジュリアン・オピーとジム・ランビーは日常生活とアートの境界を曖昧にしているが、今井の作品はあくまで画面空間における絵画とデザインの境界の曖昧さにとどまっているような気がしないでもない(念の為だが、否定的な意味で言っているのではない)。インタビュー映像に戻るが、「勝手に変わっていくものを自分で発見できるかどうか」の今井の発言には、現代社会に溢れる視覚イメージから昇華した純粋な絵画性(あるいはデザイン性)にどこまで接近できるかといった、クラシカルなスタンスの一端が窺い知れるように思う。

『彼について』(2018年/イギリス):テッド・エヴァンズ

 「私は平安を与えよう 私が与える平安は世の平安とは異なるが、心を冷静であれ」

 移動中の列車内でサラが座席に座っているショットに上記の神父の言葉の前半部分が被さり、その言葉の後半部分と同期する神父の説教に傾聴するロバートの父がいる教会の厳かな内部が映る次のショットに接続される。列車の車内と教会の内部の2つのショットを繋ぐ神父の言葉は2人の対象者にたいして異なる意味と質をそれぞれに付与している。ロバートの父にとっては、息子を失ったばかりの自身の置かれた状況にたいする救済の言葉であり、精神に届く言葉として直接的に与えられている。その一方で、10年間交際したロバートの恋人としての立場を有するサラにも、時間と空間を横断した映画的表象としての間接的な言葉が届けられているかのように見えないこともない。しかし、神父の口から吐き出される音声の形をしたその言葉は映画的表象としてサラの姿と重なっているものの、サラ自身がろう者であることによって、その言葉は同じショットに宿されているがゆえに、乖離的な関係が滑らか(まさに滑らかなのだ)に映っている。つまり、ろう者のサラにとって神父の言葉は自身に届くことのない(結びつくことのない)無関係な、たんなる他人の言葉として表層的に、あるいは物理的に併置されているに過ぎないのであり、同一ショットにおける分離と倒錯がほんの数秒間に出現している。スクリーン内の映像と同期しない音声という映画技法(ボイス・オーバー)としての機能美からの逸脱とさえいえよう。映画の表層に現前し、聴覚と視覚のあいだに横たわる不条理性は映画的表象のみならず、現実的事象としてろう者を包囲してもいる。ろう者にとって、音声は意味作用をもたされることなく、たんにそこにあるしかない、聴者以上に非実体的な存在であり、ろう者にさえ常につきまとう権力的な存在としてもある。だが、神父の言葉のうちに語られる「平安」はサラの心情にも結びつくかもしれない言葉であるどころか、サラの破壊対象としての「平安」に転化することになる。ロバートの父が神父から受けるのは、偽りの「平安」であり、発声によって導き出される「平安」を破壊する異分子として、サラはロバートの父の前に突如出現する。神父の言う「私の与える平安」の精神性にたいして、「世の平安」は日常や世情の安定さを指しているのだが、ろう者は「世の平安」からも遠ざけられた存在(マイノリティとしての存在)であり、サラはロバートの父が隠蔽してきたろうの世界から立ち現れた異分子なのである。救済と破壊の両義性を含有する「平安」の言葉が列車(運動)と教会(静止)の2つのショットを繋いでいる。

 サラはロバートの遺体と会うために(遺体はすでに焼却されて遺骨になってしまったが)ロバートの父のもとへ向かうのだが、ロバートの父の頑なな拒否によって2人は衝突を都度繰り返す。だが、相互理解や認識共有を図ることの実現不能より、サラの「手話」とロバートの父の「発話」の異言語同士、しかも異なる音声言語ではなく視覚言語と音声言語という感覚器官の相違による物理的な実現不能が真っ先に表れている。ろう者と聴者によるディスコミュニケーションが前景化しているのだが、互いが言葉より感情そのものを相手に激しくぶつけ合っている。コミュニケーションの不可能性がそのままの形でむき出しにされる状況は、感情が先行し後から言葉が引っ張り出されているような感覚が生じる。だが、同じ背景を持つ者同士(ロバートに深くかかわる人物として)による不可避の事態が相手の言うことがわからないにもかかわらず、必然的な対立関係が生起している。必然的であるどころか、むしろ自然な関係を共有しているとさえ言っていいかもしれない。このようなディスコミュニケーションはろう者と聴者のあいだで起こる特殊な状況ではなく、身分性の相違にかかわりなく誰しもが経験する普遍的かつ根源的な、記号化以前の言語行為なのだ。「手話」と「発話」の差異が感情の先行というアプリオリな状態を顕現化し、コミュニケーションの本質を浮かび上がらせる。衝突し合うサラとロバートの父のディスコミュニケーション的な対立関係はいわばダイアローグの不可能性でもある。サラはダイアローグの失敗を取り返すべき、ロバートの父がいつも通う近所のカフェで手話を音声通訳する友人の協力を得ながらモノローグを行うことになる。サラの背後にはロバート(とサラ)のプライベート映像が投影され、サラは自身が受けてきたロバートの人物像について静かに語り始める。そのことによってロバートの父は頑なな態度が次第に溶解し、息子の遺骨の入った小壺をサラに譲り渡し、謝罪の一言を述べる。それ以降は、サラとロバートの父の心を開いたささやかな交流が描写されていく。ダイアローグ→モノローグ→ダイアローグの循環的な構造がサラとロバートの父のあいだに横たわる感情と言葉の壁を乗り越える契機として機能する。モノローグを通過したダイアローグには「手話」と「発話」の壁が依然として存在しているが、コミュニケーションの不可能性は不確実性の次元へ移行し、2人の精神が互いに解き放たれることになる。「手話」と「発話」を同一ショットに現前することの不合理さと困難さはこの映画をきわめてアクチュアルなものにしている。

 ロバートの父の行きつけのカフェは、本作の中で重要な場所として幾度かのシーンに使われている。ロバートの火葬後に近親者や近所の人たちがカフェに集まり、(音声による)会話に興じるシーンではサラとロバートの父が初めて出会うターニングポイントのシーンとなっている。前述した、サラが映像を投影しながらモノローグするシーンも含めて、カフェの中にいる何人かの客はサラを除けば、全員が聴者であることを察することはできるであろう。サラとロバートの父が宥和した後の(ロバートの)お別れ会のシーンでは、数多の(10~20人ほどではあるが)ろう者が一堂する。海岸で遺骨を散布するシーンの後には、当然のことのようにカフェのシーンが再度現れる。だが、これまで聴者たちの溜まり場であったカフェの空間が、今度はろう者たちに取って代わることになる。カフェの同一空間におけるコミュニティの逆転が行われたのである。残された映像やサラの夢の中では、不明瞭のままであったロバートの顔がラストになってその全貌を現したのは、ロバートの父が悔恨の思いを吐露したことにたいしてのみならず、ろうコミュニティの空間そのものがロバートの顔をこちら側に向かわせたのである。それと同時にラストのディスプレイに映るロバートは、ホームビデオやサラの夢の中に現れるロバートの非実体的表象をも超越する虚構内虚構としての象徴的表象に到達している。

 

『夢の男』2023年劇場版:KAAT 神奈川芸術劇場

 KAAT 神奈川芸術劇場にて『夢の男』を観賞する。『夢の男』は《視覚言語がつくる演劇のことば》プロジェクトの作品として制作されている。藤原佳奈が執筆したテキストをもとにして、過去2年間(2021年/2022年)に同タイトルによるオンラインでの発表が行われてきたが、今回は劇場空間での上演という形になった。本来の形に戻ったと表するのが正しいのかどうかわからないけれど、前回と前々回の映像作品はそれぞれが演劇的表現を取り入れたうえでの自律した作品になっており、昨今の社会情勢の成り行きで結果的に順序が入れ替わっただけのことかもしれない。だが、目の前に現れる生身の役者の存在感、劇場に向かう行為にともなう高揚感は、PCの画面を前にして観賞する行為からは得られることのない、日常生活を逸脱するような(特別な)経験であったのは言うまでもない。会場の大スタジオに入ると、通常の舞台と座席が設置されていない様相を目の当たりにする。平坦に開かれた空間の真ん中に膝の高さくらいの簡易ステージの大きいのが1台(組?)、その前後に小さめの2台(大きいステージより腰程度に高くなっている)がそれぞれに置かれたセット構成になっている。観客はステージの周りに手当たり次第にばら撒かれた座布団の1つを選択して座る。このようにして大きいステージを中心に360度近く囲んで観賞するのが本作の観劇の形であった。

 上演の際に客電が落とされて始まったのか、落とされないまま始まったのかは、今となっては早くも記憶が朧げになってしまったが、唐突な感じでカメラを持った齋藤が登場し、ステージや観客の間を徘徊する。齋藤が片隅のベンチに座った後に2人の人物、山本と江副が対角に設置された2台の小さなステージに立ち現れ、山本は音声、江副は手話といった、自分の使う言語で同時に朗読を行い始める。演劇等の舞台観賞の経験が乏しい僕のことだからかもしれないが、江副の左手で冊子を持ち、右手で手話をする姿には何故か新鮮な感じを受けたのである。ろう者は日常生活の中で手話を片手ですることはよくあることで、僕も状況によっては片手で会話することがある。だが、演劇空間における江副の片手による手話は別の意味を呼び起こす。冊子に書かれているのは『夢の男』のテキストであり(冊子は観客にも入場時に配布される)、日本語で書かれたテキストを片手に持ちながら片手の手話で同時翻訳することのスリリングさを目撃している時の感覚をどう言い表せばいいのか。文字言語をもたない手話であるがゆえに、片手に持ったテキストの存在が江副の身体と摩擦している。山本が音声で朗読する時の書かれた文字の日本語をそのままなぞる円滑さ(全てがスムーズに行われているという意味ではなく、相対対象としての形容)に対して、日本語を手話に翻訳する時の困難さ(異言語間の横断性)を演劇空間の中でモデル化(前景化)することの現前性があり、そこにある種の新鮮さを感じたのである。テキストの日本語の文字と手話による語られた言葉の対立関係は、手話による現前性が実は書かれた文字に準拠してしまう関係を同時に孕んでいる。この対立そのものが倒錯を含んでいるのであり、語られた言葉(手話)のうちにも書かれた文字と日本語の影響を受けざるをえないマイナー言語としての宿命が潜んでいる。同じ日本語としての文字から音声への円滑な移行が行われている位置の対角線上で、江副の身体は日本語の文字を視覚的に、あるいは空間的に翻訳することで、文字に依拠しながらそれを否定するという倒錯を両手の同時行為、手話と冊子の現前性によってポジティブ(江副の優れた才能を含めて)に行なっているのだ。

 朗読が終わった後、山本は生身の存在のまま、江副は影の存在として二手にスタジオの内外へと分かれ、スタジオを囲む壁の一面の表裏で生身の存在と影のシルエットが解離的に競演される。観客の前に再び現れた江副は、影としての存在から身体そのものはあるのに「身体をなくした」という、実体的存在を装った非実体的人物に成り代わる。江副は山本に延々とついて回るのだが、大スタジオの空間を縦横自在に動き回る様子(実際には緻密にコントロールされている)は360度に開かれた演劇空間に対する観る側の視線の定らなさも相乗して、2人の追う追われるの関係、あるいは朗読の時には顕現していた2人の身分関係が次第にあやふやになっていくようである。2人のそれぞれが持つ言葉(音声/手話)を排除した身体動作のみによる抽象性が拡張され、自分の身体に対する不確かさがフイクションとしての役者の身体のみならず、それを観ている現実的存在としての観客の身体にも波及している。追う追われるの関係を演じる2人の身体は、音声と手話が有する言語的特性を抑制する(差異の消失)ことによって、共有コードとしての視覚言語を演劇空間の中で全面展開している。身体動作から生成する、言語的特性が希薄化された視覚言語は伝達する機能を縮小し、文脈的な意味の発生以上にその場で行われている事象自体の抽象性を増幅している。しかし、そのような視覚言語が支配するなかで、山本がときに表わすオーバーアクション的なジェスチャーと江副が唐突に挙げる物体化した吹き出しの台詞は抽象的事象に裂け目を生じさせる、別の形としての視覚言語を新たに発生している。ディスコミュニケーションの表象、不確かさが浸透していく悲劇性に対する喜劇性としてのコメディ的ふるまいは役者の身分性を再び浮き上がらせる。山本のジェスチャーはまぎれもなく聴者としての純粋なふるまいそのものであり、吹き出しの小道具を持つ江副の姿には、ろう者あるいは手話が日本語を借用することのアナロジーになっている。アクション(山本)と文字(江副)に準拠することの倒錯が視覚言語への実践をカオス的に導いているのであり、多層的に視ることの悦楽とユーモアがそこには発生している。街のシルエットの後に1人残された山本の舞踏的動作に当てられるフラッシュ照明は身体が失われていく感覚を明滅的に照らしているが、消滅的イメージよりは破壊的イメージが喚起され、むしろ肉体としての存在(感覚)が瞬時的に迫ってくるのである。

 明転で山本と交代するようにそれまでずっとベンチに座っていた齋藤が白い大画面のスクリーンの前に置かれた演台に立つ。演台で齋藤が語るのは、つい今しかたまで山本と江副が行ってきた『夢の男』の芝居、あるいはテキストの内容についてであり、齋藤自身の生い立ちを織り交ぜながら話している。幕開き(幕は無かったけど)の時に齋藤がカメラを持って登場したことに引っ掛かりを感じていたのだが、演台で語り始めたことでその引っ掛かりが次第に溶解することになる。齋藤は著名写真家でもある「齋藤晴道」自身として本作に参加していることが明らかになったのである(スクリーンに大写しされた、余韻が長いクロスフェードの写真もおそらく齋藤の作品だろう)。作品内においての「本人役」とはまた意味が異なる、れっきとした「齋藤陽道」その人自身が演劇空間に出現している。演劇空間に入った時から齋藤はメタ的な存在として、半ば観客と同列の存在としてベンチに座っていた。演台で語る齋藤は「齋藤陽道」自身のろう者としての固有性(自我と言い換えてもいい)を前景化させ、演劇空間におけるメタフィクションな曖昧さでさえも通り越している。観客の中にろう者がいたとすれば、齋藤の語りは代替可能となる(僕でもかまわないし、齋藤が聴者であれば聴者の観客でも可能となる)。つまり現実的存在としての固有性が観客の数だけ、KAATの大スタジオに集まっているということが言える。齋藤は『夢の男』で描写される身体の不確かさを自分の身体や自分固有の過去に照らし合わせながら解釈しているように感じたのだが、揺るぎない固有性から発する他者の感受性や認識を少なくとも作品内で受容することは困難であると言わざるをえない。表現の外部にある何かにコミットするのではなく、フィクションとしての世界をまるごと受け取ることが作品そのものを自由に経験する実践となるのではないか。そのことは意味自体が拒否されることもある場としての演劇空間を体感することでもある。

 再び山本と江副の2人による台詞のない芝居が始まり、今度は互いが離ればなれに身体表現を行っている。2人の身体動作を交互に凝視していると、普段の生活で繰り返される日常的動作を模倣していることが見てとれる。山本はベビーカーを押したり、子供を抱き上げたりするような、若い父の行動にありがちな動作をしている。江副のほうでは1人の男性が毎日行動する、起床してからの朝の準備、電車での通勤、会社での仕事作業などの情景が現れている。こういった日常的行為が2人(のどちらかでも)の実体験に基づいたものであることを、ある程度想像することはできるかもしれない。山本と江副の各自の個人的経験からこのような演劇的表象に移行されていることを前提として言うなれば、2人のフィクション的存在がゆるやかな固有性(普遍的、無名的にも成りえるような存在)として、それぞれの身体表現に同化している。日常的動作を模倣しているが、ベビーカー、ネクタイやシェーバーなどといった実物や小道具を使わない身体表現は反復的なイメージによって、身近な出来事に対する具体的な想像から肉体そのものの運動への直面に変移する時間と空間を生起させている。離ればなれに行動していた山本と江副が接近と離反を繰り返し、2人の視線が交わされる場面が訪れる。仕事の合間の休憩でタバコを吸っているように思われる江副の動作の一方で、赤ちゃんとのお出かけの途中で一息し、山本もタバコを吸おうとしてポケットの中を探る動作をしている。タバコもしくはライターを探るのに多少手間取っている感じで、その目的物に触れた瞬間、離れたところにいる江副と眼が合う。その際に、後ろのスクリーンに「あ、ありましたね!」の字幕が表示される。テキストにもその言葉はあり、無くした身体の在りかに拘泥する夢の男に適当に言い放つ言葉となっているのだが、喫煙の場面の際に表示される字幕は、日常生活や社会生活で孤独になった者が持ちうるかもしれない身体感覚の変容に対する反動的あるいは能動的な言葉として、テキストの言葉と複層的に連動している。2人の視線が合った瞬間の時空を超えたシンパシーは、同時に演劇空間での行為と結びついた身体そのものに認識を向かわせる。「あ、ありましたね!」の字幕は、山本がタバコもしくはライターがポケットにあることを認識し、江副と視線を交わした時に表示されているので、その字幕は山本が探していた物自体への因果関係を表してもいる。不確実な身体感覚から生ずる観念的なものとしての「身体」と役者の肉体そのものとしての「身体」の解離的関係にはある種の緊張感が持続的に発生する。だが、字幕と物自体の具象的事物関係を異時空間を超えて山本と江副が共有認識することの非論理性には理性と感覚の飛躍が発生している。『夢の男』は場面のなかにおいても、場面と場面の境界においても、フィクションと現実の往来が実践されている。融合と分離の2つの印象が最後まで相克するなかで、様々な視覚言語を表象する役者は身分性の超越を試みる態としての身体/肉体を終始現前している。

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